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長谷川裕子×隈研吾セッションレポート:自然・感覚・素材が導く建築の未来

2026.06.15
REPORT

シンガポールニューアートミュージアムで現在開催中の隈研吾展「MAKERU」。これを記念して、本展のキュレーターである長谷川祐子氏と隈研吾氏の対談が行われた。

セッションの冒頭で長谷川氏は、今回の展示が「シンガポールという東南アジアにおける最初の大規模で包括的な展覧会」であり、アジア、とりわけ中国にも焦点を当てていると位置づけた。そのうえで、ファウンダーズ・メモリアルをはじめ、アジア全体へと話題を広げながら、隈の建築を貫く視点を引き出していった。本稿では、機知に富んだセッションの様子をダイジェストでお届けする。

風景と結びつくシルエット:ファウンダーズ・メモリアルとガーデンシティ

トークイベント中の長谷川氏と隈氏

トークイベント中の長谷川氏と隈氏

最初に長谷川氏が触れたのは、シンガポールのファウンダーズ・メモリアルについてだ。シンガポールの初代首相、故リー・クアンユー氏を始めとした、シンガポールの建国初期に重要な役割を果たした人物たちをたたえるための記念碑である。2019年にコンペティションが行われ、隈研吾建築都市設計事務所とK2LDアーキテクツの共同案が最優秀として選ばれた。

長谷川氏が、シンガポールをどう見ているか、そしてこのプロジェクトの着想がどこから来たのかを尋ねると、隈氏は自身にとってのシンガポールの原風景から語り始めた。

隈氏は、1980年代に初めてシンガポールを訪れたと振り返り、「日本とはまったく違う」「ある種の楽園でした」と述べた。その後たびたびこの地を訪れ、やがて「私たちがシンガポールで設計した最初の公共建築」としてファウンダーズ・メモリアルに取り組むことになったという。計画や基本設計にかけた年月は10年にもおよび、長い時間をかけて構想が育てられてきたことを示した。

このプロジェクトの核として隈氏が挙げたのは、リー・クアンユーの「ガーデンシティ」という概念である。隈氏は、1960年代の段階でリー・クアンユーが環境やサステナビリティにつながる発想を打ち出していた点に注目し、「彼は環境デザインの一種の先駆者です」と語った。

そのうえで、国際コンペティションで多くの案がシンボルやモニュメントを志向していたのに対し、自身の案は風景と強く結びついたものだったと説明する。さらに、マリーナベイ・サンズを正面に望む立地を踏まえ、高層建築群と低いシルエットの建築との対比を意図したと述べた。隈氏にとって、その低いシルエットこそが「シンガポールの未来を示すことができる」という考えだった。

これに対し長谷川氏は、ガーデンシティの理念が「世界にとって非常に重要」であり、隈氏の提案は「創設者たちの本来の理念を継承し、それを風景の中に適合させました」と応じた。未来のシンガポールと都市景観がどうなっていくか、ある種の穏やかな変容なプロセスであるとも語った。

構造と手仕事が結ぶ風景:ジェフリー・バワのモニュメントとキトゥル

モニュメントの模型

モニュメントの模型

続いて話題は、スリランカのルヌガンガに設けられた、ジェフリー・バワ生誕100周年のモニュメントへ移った。ジェフリー・バワはスリランカを代表する建築家であり、熱帯地方の建築の伝統と西洋的なモダニズムを融合させた「トロピカル・モダニズム」を提唱した人物として知られる。ルヌガンガはバワが作り上げた巨大な庭園と別荘である。

隈氏は、この仕事が現地の職人との協働を軸に進められたプロジェクトだと説明する。スリランカを訪れ、とくにバワ自身の作った理想郷とも呼べるルヌガンガに強い印象を受けたという。隈氏は、ルヌガンガの細部がバワ自身によって設計され、彼がそこで暮らし、そこで亡くなり、墓も庭の中にあることを語った。

モニュメントの構想は、ルヌガンガの敷地を歩き回るなかで具体化した。隈氏は、バワのリビングルームで小さな籠を見つけ、それがキトゥルという植物からつくられていることを知る。さらに、キトゥルによる籠づくりが上手なおばあさんの存在を聞き、この土地の素材と手仕事の記憶をモニュメントに結びつけていった。

長谷川氏は、このモニュメントがローカル素材であるキトゥルを自ら見つけ、観察し、調査していく隈氏の方法論がよく表れているプロジェクトだと紹介した。

隈氏は形態についても、「恣意的な形ではありません。意味のある形です」と強調した。構造的には鉄骨フレームの引張と圧縮がバランスする機能的な形であり、そこにキトゥルの布を固定して実現したという。長谷川氏も、素材名がそのままタイトルに入っている点を「とても興味深い」と受け止め、このモニュメントに宿る土地の親密さを印象づけた。

さらに隈氏は、バワを「西洋と東洋の橋として働いていた」と位置づけた。スリランカに生まれ、イギリスで学びながら、建築学校には行かず、ロースクールで学んだという経歴にも触れつつ、その独学性が創造にとってむしろ良かったのではないかと述べる。隈氏は「私は彼から多くのことを学びました。そして彼のモニュメントを設計する機会を得られたことは、私にとって大きな栄誉でした」と語った。

廃材と木が語る現状:カリマンタンの火の見やぐら

火の見やぐらの模型

火の見やぐらの模型

次に取り上げたのは、カリマンタン島の火の見やぐらだ。通常なら機能優先でコンクリートやスチールによってつくられる監視塔を、地域の素材と自然のローカルな姿を用いて変容させた点に長谷川氏は注目し、そのプロセスを尋ねた。

隈氏は、まず、カリマンタンの熱帯雨林が火災、開発、無計画な開発によって破壊されてきたと説明する。クライアントは、この森をインドネシアの宝である熱帯雨林として残したいと考えており、隈氏はそれに対してモニュメントとしての提案を行った。

「モニュメントであるなら、それはそれ自体で語らなければなりません。説明なしに」と、隈氏は主張する。板材と木、さらに廃プラスチックを組み合わせたような混合素材によって、森の現実の状況そのものを示したかったという。つまり、単なる監視塔ではなく、森で何が起きているのかを可視化する存在として構想されたのである。

長谷川氏もまた、なぜ火の見やぐらが必要なのかという点そのものが重要だと指摘した。森は地球の肺であり、この塔は人々に森林保護への注意を向けさせる火災監視塔である。長谷川氏は「非常に心理的であり、生態保護に関するとても重要なステートメントがある」と述べ、隈氏の仕事を単なる造形ではなく、生態系と人間の意識をつなぐ装置として読み解いていた。

竹が切り拓いた中国最初のプロジェクト:竹屋グレートウォール

竹屋グレートウォールの模型

竹屋グレートウォールの模型

中国で最初のプロジェクトとして語られたのが、竹屋グレートウォールである。隈氏はこれを「忘れられないプロジェクトです」と切り出した。

最初の敷地訪問は1998年12月。クライアントは若いデベロッパーで、小さなホテルの建築を希望していた。ただし条件は過酷だった。マイナス30度の気温の中、次の5月までに完成させたいという。

長谷川氏が「それでイエスと言ったんですか」と驚くと、隈氏は「でも実際に、ノーとは言いませんでした」と返す。そして、「あなたのスケジュールを尊重したい」と答えたところ、クライアントは非常に喜んだという。予算も「とても、とても小さかった」とされるなかで、隈氏は竹を使うことを提案した。隈氏はクライアントが竹に難色を示すのではないかと心配していたが、返ってきたのは「面白い素材ですね」という反応だった。理由は、「竹は安いから」という、きわめて率直なものだった。

もっとも、中国で竹を恒久建築に使うことは容易ではない。竹は建設現場では足場として使われる材料であり、建設会社の多くは「仮設建築であって、恒久建築ではない」として採用に否定的だった。そこで隈氏は、京都の竹の専門家である大工の友人に助けを求め、実現へと進んだ。結果として完成までには4年を要したが、隈氏はそれを中国における出発点として語った。

長谷川氏は、竹の使い方が「初期の茶室」を思わせると指摘し、千利休の時代に土や竹のような最も安い素材が選ばれていたことを引き合いに出した。隈氏もまた、当時の中国ではまだサステナビリティが大きな課題ではなかったが、完成後には非常に良い反応があり、やがて2008年北京オリンピック開会式でもそのイメージが使われたと振り返った。

長谷川氏は隈氏の建築が「まず形をつくってから理由を付ける」のではなく、「形ではなく理由をつくる」ことから始まっており、そこから地方性の美学が生まれてくることも指摘した。

丹下健三とシンガポール、そして幼少期の決意

隈研吾氏

隈研吾氏

セッション後半の大きな柱となったのが、国立競技場と丹下健三の比較である。長谷川氏は、もともとの競技場が丹下の設計であり、東京オリンピックにとっても重要だったことを踏まえ、隈氏がどのようにその意味を継承し、あるいは変化させ、未来のモデルへ変換したのかを問うた。

隈氏はまず、丹下健三とリー・クアンユーが友人であったことに触れながら、丹下がシンガポールでも複数の建物を設計していたことを紹介した。そのうえで、丹下の戦後建築を特徴づけるものとして「柱、柱、垂直、垂直」を挙げる。大空間に本来不要なはずの柱をあえて見せることで、都市の中にモニュメンタリティをつくり出していたというのである。1960年代の日本には「垂直は必要な要素だった。そしてシンガポールも同じ」と隈氏は語る。かつては低い建物の都市だった

さらに隈氏は、自身が10歳だった1964年、父に連れられて東京オリンピックを訪れ、丹下の建築に衝撃を受けた経験を語った。父にこの建物を設計したのは誰かと尋ねると、建築家の丹下健三だ、と。その時に決意をしたという。

「では私は建築家になろう。私はその日に決めました」

「丹下健三とは反対の方向に行きたい」:国立競技場と水平性

セッションの様子

セッションの様子

しかし、そのうえで2021年の東京オリンピックに向けた自身のプロジェクトでは、「丹下健三とは反対の方向に行きたいと思いました」と明言する。心に触れることは重要だが、素材も形もまったく逆を目指したという。長谷川氏が「水平性ですね」と補うと、隈氏は「水平性、自然素材、まったく逆です」と応じた。

また、丹下健三は自分の建築に木が一緒にあることを好まなかったらしいという説を紹介する。「彼はいつも、建築は環境の主役であるべきだと言っていました。もし木が建築を隠すなら、それは建築にとってよくない、と。しかし巨大すぎるプロジェクトに対して、植生で建築を隠すというのはとても自然な解決策です」。隈氏は、アジアでは雨と強い日差しから木を守るため、屋根の連なりと影が重要だと語り、それをパゴダの知恵として説明した。7世紀に建てられた木造建築が今も生き残っているのは、「影」が建築を守ってきたからだという。そしてもう一つの秘密として、「小さな粒子、小さな単位」を挙げた。

隈氏は「小さな粒子であるということは、リサイクルしやすいという意味です」という。長谷川氏はこれを「断片化された要素ですね」と言い換え、メンテナンスの容易さもそこに含まれると応じた。隈氏は、7世紀の時点ですでにアジアの人々は持続可能な建築のつくり方を知っていたのだとし、「アジアにはサステナビリティの知恵がある」とまとめた。

また、国立競技場には「公共のプロムナード」が提案されている。通常はチケットが必要で閉じられがちなスポーツ施設に対し、この空間は人々に開かれているという点を、長谷川氏は先に語られた庇の議論と結びつけ、「寛容さを生み、人々に開いていく」同じアイデアだと指摘した。

「ばらばら、もっとばらばらに」:オノマトペとTomonami

国立競技場の模型

国立競技場の模型

セッションの終盤で話題は、隈氏が近年重視しているオノマトペへ移った。国立競技場の座席の色彩についても、隈氏はオノマトペを交えながら説明した。複数の色を持つ座席の「ばらばら」の効果によって、夜間に人がいなくても、人で満ちているように見えるというのである。長谷川氏は、特殊な表現音としてのオノマトペが、創造プロセスにとってどれほど重要なのかを尋ねた。

隈氏は、オノマトペは日本だけのものではなく、その起源は古代ギリシャにあると説明した。意味は「言葉を創造すること」であり、「雰囲気から言葉を創造すること」だという。つまりそれは、論理と感性のあいだに位置するものである。

さらに、日本語、バスク地方の言語、アフリカの言語には多くのオノマトペが見られるとし、自身の理論として「オノマトペの数は自然への近さを示しています」と述べた。日本では自然が近く、アフリカでも人々は自然の中で生きている。そうした自然との距離感が、音の感覚を豊かにしているという見立てである。

近年20年ほど、隈氏の事務所ではコミュニケーションのためにオノマトペを使ってきたという。「ばらばら、もっとばらばらに」と言えば、その印象をスタッフに伝えやすい。しかし同時に、オノマトペは曖昧でもある。そこで始まったのが、ソニーとの協働によるオノマトペ・プロジェクト「Tomonami(トモナミ)」である。

隈氏は会場で公開された機械を「建築のDJ」と呼んだ。そこでは、幾何学、テクスチャー、雰囲気、大きさが一体となって制御される。通常の建築設計のように、まずボリュームを決め、その後にテクスチャーを載せるのではなく、すべてが組み合わされた状態で扱われるという。

長谷川氏も、これを「リズムや素材、そして多くの粒子を、このオノマトペ・マシンを通して学ぶ実践」と位置づけた。会場では、ぱらぱら、ぱたぱた、ずれずれ、つんつん、すけすけ、ぐるぐるといった語が提示され、ファウンダーズ・メモリアルにも適用されたという。感覚と言葉、素材と幾何学を結びつけるこの試みは、隈氏の建築観を別の角度から可視化するものとして紹介された。

手前の機械が「建築のDJ」と呼ばれたマシン。奥の映像で制御された映像が見える

手前の機械が「建築のDJ」と呼ばれたマシン。奥の映像で制御された映像が見える

セッションの話題は広範に及んだが、対話全体を通して見えてきたのは、形態の強さよりも風景との結びつき、巨大な記念性よりも低いシルエット、そして素材、職人、環境、身体感覚を結びつける設計思想である。

長谷川氏はこの対話を通じて「建築の文法や論理が、言葉としてだけでなく、感覚にも非常に深く結びついている」ことが見えてきたと整理した。そして、強い観察、素材や環境に関する調査が一体となり、「未来の建築のモデルをつくり、それをアジアから提示していく」のだと最後に述べ、セッションは終了した。

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