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鉱物の色彩で描く、時を超えたまなざし:二川和之インタビュー
2025.05.10
INTERVIEW
ホワイトストーンギャラリーシンガポールは、このたび「ストーリーキーパー:物語と伝統」を開催いたします。今展は、日本におけるストーリーテリングの永続的な影響を探る展覧会です。 現代美術を通じて、変容、霊性、アイデンティティというテーマを探求し、古代の物語に対する新しい解釈を提供します。
岩絵の具を用いて風景を描くことで有名な二川和之の作品を特集いたします。今回のインタビューでは、自然の美しさを捉える二川の一貫したアプローチに迫り、伝統的な素材と技術が環境との深いつながりをどのように反映しているかを探ります。 二川の作品は、自然とアイデンティティ、そして芸術的表現の関係について、時を超えた瞑想を私たちに示しています。

作品のクローズアップ
ー結晶化された天然色素は、今日でもアートで使用される一般的な材料ではありません。どのように、そしてなぜ、すべての作品に一貫した材料として維持してきたのですか?
二川:私は、海と山と川に囲まれた自然豊かな町で育った。そんな私が自然を使い、自然を描き、自然に返しているのは、ある意味必然だったのかもしれない。6歳のころから既に私は絵描きになりたいと漠然と思っていた。美術大学では、油絵と日本画という2つの選択肢があった。私は迷わず日本画を専攻した。生まれ故郷の自然が私の背中を押してくれた気がした。
1300年という歴史を経てさまざまな様式を生み出し続けてきた日本画は、水彩画しか知らなかった私にとって未知の世界だった。伝統に裏打ちされた様式美と歴史の淘汰を潜り抜けてきた存在感に圧倒された。伝統的な日本画は「水干絵具」という泥を植物性の染料で染めて作られた絵具を主に用いて描かれていたが、私が日本画を学び始めた頃には、「岩絵の具」を用いて作画するのが主流となっていた。
「岩絵の具」は天然の岩石を砕いて精製したものであるため粒の大きさはさまざまである。粒の大きい岩絵具は、色を溶くのも困難なら、画面上でもゴロゴロと安定しない。到底絵に使えるものではなかった。70年ぐらい前、試行錯誤の末、粗い粒子の岩絵具の扱いが容易になった。グラニュー糖程の大きさに改良された粗い岩絵の具には、他の絵具にはない独特の質感があった。その深くて鈍い光に私は魅了された。岩絵の具の元となる鉱石は山岳地帯や険しい地形に存在するため、採掘には徒歩での移動となる。標高2700mのアフガニスタンの高地にある「群青」。アフリカのザンビアで採れる「岩緑青」は酷暑の中での作業となる。これら岩絵の具の鉱石は、何度も砕いて取り出され、手作業で選別され、発色がよく不純物を取り除いたものだけが岩絵の具となって私の手元に届く。
過酷な自然環境にしか存在せず、多くの人の手によって生成された天然鉱物の岩絵の具で私が自然を描くことは、自然に置かれたものをまた自然に返す営みといえる。和紙も筆も膠(にかわ)もすべてが自然由来である日本画に、私たち人間と自然との共生の姿が投影されている気がしてならない。扱いづらい岩絵の具であるが、その重厚な質感、単色に納まらない色の深み、光によって変化する表情は何物にも代えがたい。多くの人にその魅力を知っていただきたく日々格闘している。

二川和之《垂れ桜》2014、24.2 x 33.3 cm、岩絵の具・和紙
ー日本画への愛情は風景画を通して明らかになっていますが、日本画に注目され続けているのは何ですか?
二川:私が日本画で自然を描き続けているのは、自然がただ美しいだけの存在ではなく、私たちの心に深く根ざしたものと考えるからだ。
古来より、日本人は自然とともに生き、自然に祈り、自然に癒されてきた。
春の芽吹きに希望を感じ、夏の蝉時雨に生命の躍動を聴き、秋の紅葉に移ろいを想い、冬の静けさに無常を悟る。自然はただの風景ではなく、私たちの精神を映す鏡だった。
日本画は、そんな日本人の自然観を余すところなく織り込んできた。
岩絵具のざらつきは、土や岩の温もりを宿し、和紙の柔らかなにじみは霧や風の儚さを匂わせる。 絵具の一粒一粒が光を含み、朝露のきらめきや夕暮れの余韻を静かに語りかけてくる。私は、日本画 という伝統技法によって、この国に息づく自然のかたちや空気、匂いまでも描きとめたいと願っている。
しかし今、その自然は音もなく失われつつある。豊かな里山は開発で削られ、清流は濁り、海はプラスチックに覆われている。かつて日本人が大切にしてきた自然へのまなざしは、利便性と引き換えにどこかに置き忘れてきたらしい。
私は静かな悲しみを覚える。
だからこそ、私は日本画にこだわり続けたい。それはただ過去の伝統を守るためではなく、自然の尊さを描き継ぐためである。岩絵具や和紙といった自然由来の素材で描くことは、人と自然がともにあった時代への祈りでもある。絵の中に映し出された森の緑や川の煌めきが、誰かの心に自然へのまなざしや慈しみをそっと呼び覚ますことを願って。
私の絵は、やがて失われるかもしれない風景への惜別ではなく、自然とともに生きる未来への願いなのだ。この地球が少しでも長く、豊かな美しさをたたえ続けるよう、私はこれからも筆をとり続ける。

二川和之《奥入瀬廣彩》2017, 41.0 x 53.0 cm, 岩絵の具・和紙
ー少し趣を変えて、天然顔料や鉱物顔料を使う中で発見した、豆知識や面白いエピソードがあれば、ぜひご紹介ください。また、歴史的に重要な画材に対して、観客がさらに興味を持てるようなメッセージがあれば、あわせてお聞かせください。
二川:私は日本画で岩絵の具を使い続ける中で、いくつもの新たな発見をしてきた。一見すると同じように見える青でも、群青の粒子が粗いと空に力強さが宿り、細かいと霞のような静けさが生まれる。また、岩絵の具は見る角度や光によって表情が変わる。朝日の下ではふんわりと柔らかく、夕暮れには深く沈むような色合いを見せることがある。私は、そんな岩絵の具の“揺らぎ”や“奥行き”の妙に心惹かれる。
筆を置いてしばらく経つと、描いているときには予測できなかった微かな滲みが現れる。さらに時間の経過に伴い刻々と増す色の深みは、日が沈むときのグラデーションのようだ。それは人の手では完全にコントロールできない、自然が作り出す偶然の美そのものである。この“偶然性”は、西洋絵画の絵具では味わうことができない日本画ならではの魅力だと感じている。

二川和之《岩の波》011, 31.8 x 41.0 cm, 岩絵の具・和紙
私の絵を鑑賞してくださる方々には、色彩としての色ではなく、岩絵の具に宿る歴史や自然の記憶にも思いを馳せていただけることを願っている。たとえば、群青はかつて「青金(あおがね)」と呼ばれ、金と同じほど貴重なものだった。安土桃山時代の屏風絵や江戸時代の浮世絵にも群青が使われ、その鮮やかさは今も色褪せない。天然の鉱石が持つ強さと永続性によるものである。
鉱石が削られ、砕かれ、粉になり、膠(にかわ)と混ざって画面に留まる。この過程には、自然と人が織りなしてきた長い営みが息づいている。作品を見るとき、「この青は遠い昔に地中で眠っていた石から生まれた色なのかもしれない」と感じていただけたなら、それはとても幸せなことだ。私が使う岩絵の具は、数百年前と同じ方法で作られている。絵の中に散りばめられた一粒一粒の岩絵の具は、遥かな時を超えて受け継がれてきた色なのだ。
私が描く作品の和紙や膠もまた、自然と人の技が織りなす素材である。和紙は植物繊維の手すきで作られ、柔らかな光をまとう。膠は動物の皮や骨から作られ、気候に応じて濃度を変えながら使う。これらはすべて、人と自然が共生してきた歴史の結晶である。
日本画は、ただの視覚的な美だけではなく、自然の記憶と人の手の営みが共鳴する芸術なのだ。私はこれからも、岩絵の具とともにその歴史と自然への想いを描き続ける。

ホワイトストーンギャラリーシンガポール
本インタビューを通して、二川の日本画への献身と、天然の鉱石顔料を用いた制作は、自然と歴史に深いつながりを感じさせます。 「ストーリーキーパー:物語と伝統」では、二川の環境への深い敬意と豊かな文化的な遺産を反映した彼の素晴らしい風景を見る機会を提供します。シンガポールのホワイトストーンギャラリーで、二川の作品と、天然素材の時を超えた美しさにぜひ触れて見てください。