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靉嘔:虹のアーティストが創り出す色彩の魔法|靉嘔との芸術対話

2024.06.28
INTERVIEW

Ay-O: Nijitsukai, Whitestone Gallery HK H Queen’s, 2024

「虹のアーティスト」として広くその名を知られる靉嘔。スペクトル・カラーを駆使した色彩豊かな作品群で知られる彼は、アメリカのスミソニアン国立アジア美術館や香港のM+ミュージアムなど、名だたる美術館で展示を成功させ、近年ますますその存在感は増している。

日本で生まれ、アメリカで活躍した靉嘔の半生について、作家本人と面識のある松橋英一に尋ねた。アーティスト・靉嘔との芸術対話を回想しながら、その軌跡を辿る。

 

靉嘔 についてもっと知る

 

アーティスト靉嘔さんのこと

松橋英一
軽井沢ニューアートミュージアム 館長


靉嘔との初対面 - 虹のアーティストに魅了された瞬間

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

Ay-O: Nijitsukai, Whitestone Gallery HK H Queen’s, 2024

靉嘔さん(以下、敬称略)のことを知ったのは1983年に西武美術館が発行していた美術雑誌『ART VIVANT』でフルクサスが特集され、トークイベントの記事においてのことである。生き生きとした内容で1960年代のニューヨークの出来事を語る言葉が素晴らしくて何度も読み返した思い出がある。紙面にはフルクサスのマルティプル作品が掲載されており、目が洗われた気がした。

その後、表参道にあったギャラリーでいろんなオブジェを天ぷらにしてしまう企画「RAINBOW FRY」という不思議なイベントがあり、ここで初めてご本人にお会いした。靉嘔さんはとても元気で「僕は何でもやりますよ」と言っていて、本当に何でもやる人であったということが、その後、解ることになる。

別の機会に、食事を一緒にさせていただいて様々な話をしたことがある。

「先生、フルクサスという芸術はユーモアが重要な要素ではないですか?」
「そうなんだよ。君、良く解っているね」
「マチューナスの本を読んだら解りました」
「僕の本も読んでね」

フルクサスが芸術の文脈に追加したのは笑いであり、それはシリアスな芸術に対する挑戦でもあった。


靉嘔の名前の由来 - ユーモアと創造力に満ちた命名エピソード

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

Ay-O: Nijitsukaiより、 《行くものはかくの如し昼夜をおかず A》1998, 184.5 × 230.5cm, カンバス・アクリル

 

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靉嘔の名前の由来は面白く、いたずらのように作られた。学生時代の仲間内で本名とは別の名前を付けようということになり、飯島青年はあいうえおの文字から友人に好きな文字を一文字ずつ選んでもらう。人気があったのが、あ・い・おの文字で、う・えの文字は選ばれず、あいおの名前が決まる。1953年、22歳の時のことである。

そのころ雲の絵をたくさん描いていたので、雲の付く漢字で「あい」という文字「靉」を選び、「お」はそのころ流行っていた実存主義のサルトルの著作「嘔吐」の嘔から取られ、漢字名は「靉嘔」となった。

遊びで付けたような名前であるが、この靉嘔という名前は結果として生涯使われることになる。以前、ご兄弟たちが集まった時も、妹さんが本名ではなく「アイオー」と普通に呼んでいた。家族の間でも、もう本名よりも使われるようになってしまったのかと驚いた思い出がある。


デモクラート美術家協会での靉嘔 - 戦後アートシーンの変革

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

Ay-O: Nijitsukaiより、 童話の浦島太郎をモチーフに描いたシリーズ

デモクラート美術家協会に入ったのは大学を卒業した1953年のこと、靉嘔の名前ができた少し後の頃である。「デモクラート美術協会はどんなグループでしたか」とお聞きすると、「それは君、とてもデモクラティックなグループだった」との答えが返って来て、からかわれたのかなんだかわからなかった。

しかし、よく考えてみると、自由が当たり前になってしまった現代とは異なり、戦争が終わって時間が経っていない時代に、自由で民主的という言葉や制度は本当に新しく新鮮なもので、それを美術の中で実践するということは素晴らしいことであったのだろう。

先輩、後輩や有名無名の区別なく、平等に自由に活動ができるグループがデモクラートであった。このグループのリーダー・瑛九とグループを後援していた評論家の久保貞次郎は、新しいアーティストを育てるためのバックアップを惜しまず、様々な機会を新人作家であった靉嘔や池田満寿夫に提供している。

瑛九は版画の技術を彼らに伝授し、久保は福井県で版画の頒布会を開催し、彼ら新人作家の作品を販売することで、プロの作家として生計が立てられるよう道筋をつけていった。ところがデモクラートはその平等主義のため、その後解散という道を選ぶことになる。


靉嘔のアメリカ移住 - ポロックとデュシャンに魅せられて

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

Ay-O: Nijitsukai, Whitestone Gallery HK H Queen’s, 2024

その後、靉嘔が選んだのはアメリカへ行くという当時としては非常に思い切った道である。1958年、28歳のことである。

「なぜアメリカなのか」という質問に靉嘔はこう答える。
「アメリカにはジャクソン・ポロックとマルセル・デュシャンがいるから」

ポロックはこの時点ですでに亡くなっていたが、ポロックや抽象表現主義のアーティストが集まるシーダバーに靉嘔はよく通った。そこではお金のないアーティストに無料で食事が提供されていたという。

もう一人のあこがれ、デュシャンはニューヨークにいて、靉嘔は実際にデュシャンの個展の際に何回か会っている。

「デュシャンに会ってどうだったんですか?」
「僕の英語が上手くなかったからなのか、デュシャンは僕にしゃべるなと言うんだ」
「それでどうされたんですか?」
「ずっと黙っていたよ。でも幸せだったね」

1950年代後半には、ヨーロッパから亡命してきた伝説的な芸術家たちが、まだニューヨークに滞在していた。靉嘔はデュシャン以外にも数人のダダやシュールレアリズムの作家に会っている。とてもエキサイティングで幸福な時代だったのだろう。

そんな中で靉嘔は試行錯誤の毎日を過ごす。


苦悩と創造 - 靉嘔のアメリカ時代の試行錯誤

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Ay-O: Nijitsukai, Whitestone Gallery HK H Queen’s, 2024より、左に廃材を素材とした作品《ロッカウェイビーチA》1959, 76.0 × 117.0cm, カンバス・網・木片・油彩


当時の美術の主流は抽象表現主義であり、その本拠地とも言えるニューヨークで、靉嘔はそのスタイルでは描かないという制約を自身に課して制作を続ける。あいかわらず、作品は売れないので生活は厳しい。皮肉なもので、やけになって描いたアクションペインティング風の作品が高額で売れて、そのお金で奥様を日本から呼び寄せることができた。

しかしその後も模索は続く。自身の抽象作品を否定する意味で出来上がった作品に “☓” を付けたり、近くの廃材などを集めて作った《ロッカウェイビーチ》がこの時代の作品である(上画像にある左の作品)。

生活のために始めた大工の仕事は作品作りに大きなプラスとなる。様々な工具を揃えて作業をするうちに生活と芸術は一つのものとなっていく。

今までの絵画を否定しようと、カンバスに穴をあけてみる。それが発展して穴をあける作品ができる。さらに発展して《ティーハウス》という小さな部屋の中に入って鑑賞する芸術ができる。《ハイドラ》というアルミで作られた大きな円筒と周りにつけられた熱で小さな円筒が回転する作品など、この時代に制作された作品は、今までに無かったとてもユニークなもので、若い前衛芸術家達の評判となり、様々なアーティストが靉嘔のアトリエを訪れる。

友人のオノ・ヨーコは、後に始まるフルクサスという芸術運動のメンバーとなるアーティストをたくさん連れてくる。ハプニングというアートの創始者アラン・カプローは靉嘔の作品を環境芸術 Environmental Art と呼んだ。

カプローは後に出版する有名な本『Assemblage ,Environments & Happenings』に靉嘔の《ハイドラ》の写真を掲載している。カプローは一つのヒントをもたらしたのだろう。


靉嘔の感覚への挑戦 - 五感を超えたアートの探求

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

香港での展覧会『Ay-O: Nijitsukai』のオープニングにて、1960年代のフルクサスのパフォーマンスを再現する様子。バイオリンをたたき壊すナム・ジュン・パイクの作品《one for violin》をもとに、バイオリンを破壊する筆者の松橋。

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感に加えて、未知の感覚「第六感」を含めたすべてに関する作品を作るという考えのもと制作が始まる。

フルクサスオーケストラ、レインボーディナーショー、壁から香水が飛び出す作品など、斬新な試みがなされていくが、この中で特に触覚で鑑賞する芸術《フィンガーボックス》はその後も繰り返し制作される。

「ジャスパー・ジョーンズの家に行って話をしたりしたけれど、一番うれしかったのは彼の本棚に僕のフィンガーボックスが置いてあったことだね」というようなことを後に書いている。

触覚作品については、面白いエピソードがもう一つある。個展でスポンジ(フォームラバー)を素材として使った作品を展示していたら、ある男がやって来て靉嘔に尋ねた。

「君はこういったものが好きなのか?」
「好きです」
「それではあげよう」

数日後にアトリエの前にトラックが止まり、部屋に入りきれないほどの大量のフォームラバーが運ばれてきた。靉嘔はフォームラバーに埋もれてしまうような環境作品を作る。


靉嘔の視覚芸術 - レインボーの色彩革命

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

Ay-O: Nijitsukaiより、《火山》1974, 241.0 × 173.0cm, カンバス・アクリル


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五感の最後は視覚。画家としてスタートした靉嘔にとって最も重要な感覚であるが、安易に手を付けられない分野でもあった。

15mのキャンバスを巻き、材木を枠にしてスタジオ中に張り巡らす。部屋の壁中に巡らされたカンバスに色彩を構成する要素、光のスペクトルの色をその順番で塗っていく。人間の感覚でとらえることのできる領域、赤から紫までのスペクトルをできるだけ数の多いグラデーションで。

今までの歩みが統合された視覚的な環境芸術、誰も試みてこなかった科学的な絵画が誕生した。これを考えついた時、視覚の作品は完成したのも同然、色は塗らなくても良いとさえ思ったほどであると書いている。

靉嘔はレインボーの色彩配列を使って神羅万象すべてのものを虹に変容させてしまう。

虹は日本では七色と言われているが世界的には六色で構成されており、靉嘔の絵画は厳格に六の倍数のグラデーションで構成されている科学的な絵画である。その後の活躍は万人の知るところである。

かつてギリシャ神話の中に登場するミダス王は、触ったものすべてを黄金に変える力を持っていたと言われる。靉嘔はすべてのものをレインボーに変えてしまう。過去のあらゆる芸術、自然、動物、神々、肖像、スポーツ、静物、風景など、目に映るすべての事物はレインボーに変容してしまう。

世界はレインボーに変化して、平和に包まれる。

今年93歳の芸術家が生活するこの世界は、戦争や環境問題など多くの悲劇を内包する。レインボーの幸福な世界、それは実現するのか? 今こそ靉嘔の作品が必要とされる時代である。靉嘔の芸術はまだ解明の途中であり、日々新しい発見がなされる。

最近見たスケッチには、かつて行われたエッフェル塔でのレインボーフラッグイベントの続編として、ニューヨークの自由の女神からレインボーの帯をなびかせるという計画が描かれていた。このイベントが行われることはなかったが、アーティストの尽きない想像力とエネルギーには日々驚かされるのみである。

Ay-O_Eiichi_Matsuhashi

Ay-O: Nijitsukai, Whitestone Gallery HK H Queen’s より、松橋英一。

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Whitestone Gallery Online Store では靉嘔の作品をサイトから直接購入できます。

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