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美術評論家・木村重信が目にした“吉原治良の芸術論”

吉原治良

具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第2回目は<具体>の指導者であった吉原治良の芸術論について、美術評論家・木村重信氏が綴った文章を取り上げる。先史美術の研究家として、大阪大学名誉教授や国立国際美術館館長、兵庫県立美術館を務め上げ、具体美術協会などの作家らと交流した木村氏が考える“吉原治良論”を紹介する。

吉原治良論「精神と物質は対立したまま、握手している」

木村重信(大阪大学名誉教授・美術評論家)

一九九九年、私が館長をつとめる兵庫県立近代美術館(現兵庫県立美術館)は、パリの国立ジュ・ド・ポーム美術館で「具体美術展」を開催した。同館のD・アバディ館長と展示計画を相談したが、彼は「具体」の最も顕著な特質はアクションにあると考え、そのような案を練った。事実、A・カプローが「具体」のアクションをハプニングの元祖と認めて以来(一九六六年)、海外ではそのような見方が支配的になっている。

その一方、一九五七年にM・タピエが来日して、「具体」を日本におけるアンフォルメル絵画の拠点として高く評価し、欧米に紹介して以来、「具体」は抽象表現主義系タブロー作家の集団とみなされている。

したがって「具体」には二つの顔があり、そして時期的には、前期は野外や舞台におけるアクションの時代、後期はタブローの時代とされている。

吉原治良論の冒頭にこんなことを書くのはほかでもない。彼は野外、舞台、スカイなどにおけるアクションのような「変なことを思いつき」(吉原「わが心の自叙伝」)、「具体」展で実現したが、当の本人は一貫してタブロー制作に徹したからである。

吉原が画家として注目されたのは、二科展に抽象絵画を出品し、いわゆる九室会を結成してからである(一九三八年)。彼は筆と鏝(こて)のタッチだけを並べたような純粋抽象の絵画を出品したりしたが、後年この絵をタピエがアンフォルメル絵画の先躯的作品として、自著に掲載した。

このように吉原はすでに第二次大戦前から抽象絵画のパイオニアの一人であった。戦後の一時期、具象的表現を取り入れたことがあるが、やがて「具体」を結成し、激しい筆触が重なるアクション絵画をへて、きわめて即物的な記号絵画に至った。

吉原は藤田嗣治のすすめで二科展に出品するようになった(一九三四年)。藤田から彼は「一切まねはいけないよ」といわれた。それは後に、吉原のもとに集まった「具体」メンバーにたいする「今までになかった絵を描け」というモットーに受けつがれる。『 具体美術宣言』(一九五六年)で吉原は次のように書いた。「具体美術に於ては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ」と。

ふつう美術制作とは、何らかの物質を用いて、意味のある形態を形成することであると考えられている。すなわち、物質に作者の精神が特記されればされるほど、個性的な優れた芸術になるとされている。ところが吉原はそうは考えない。彼は物質にたいして付加する術語ではなく、主語である物質的作品の実存を問題にするのである。

シュジュよりもオブジェを、シンボルよりもサインを、イメージよりもイヴェントを——、このような即物主義的な考えは、「具体」の作家たちを奮いたたせ、多くのユニークな作品をうませた。また同様の造形思想をもつ外国の前衛作家たちの共感を得て、国際交流を深めることとなった。そしてかれらの本拠である「グタイ・ピナコテカ」は世界でも最も活発な前衛美術センターの観を呈した。

吉原は「具体」発足の当初からグローバルな展開を考え、タピエをはじめ、各国の前衛的な作家や画廊と交流した。例えば南アフリカ共和国美術家協会長のA・バルディネッリへの吉原の紹介状のおかげで、私はカラハリ砂漠におけるブッシュマン調査の最良ガイドを斡旋してもらったりした(一九六五年)。

とかく外資導入的な態度に陥りがちな日本の美術界にとって、多くの海外展を通じてつねに世界美術界に新しい問題を提起し続けた吉原の功績は大きい。

ところで、一九六七年の東京画廊における個展カタログに吉原は次のように書いている。「このところ円ばかり描いている。便利だからである。いくら大きなスペースでも円一つでかたがつくということは有難いことでもある。一枚一枚のカンバスに何を描くかという煩しさから解放されることもある。あとはどんな円が出来あがるかということである」。

この円シリーズに、冒頭に述べたアクションとの決定的な違いがある。すなわち、パントル・スポンタネ(自発性画家)がアクションの痕跡をそのまま提示するのにたいし、吉原の場合、円形の線や面は緻密なタッチで克明に描かれている。彼はタブローとは別に、おびただしい数のデッサンやエスキースを残していて、とくに晩年のそれは、いずれも簡単な円や直線を粗く速い筆勢で一気に描いた墨画ばかりである。それらの中から気に入った一枚を選び、こまかい筆づかいでタブローに拡大再現する。したがってパントル・スポンタネにとっての結果が、吉原にとっては原因なのである。

J・アルプはいう。「我々は果実をうみだす植物のように生産しようと思う。直接、何らの媒介なしに生産しようと思う。こうした芸術においては、いささかの抽象化のあともないから、我々はそれを具体美術と呼ぶ」。この言葉はそのまま吉原に当てはまる。彼の作品は自然の産物が具体的であるように具体的であり、対象の具体化や抽象化とは全く無縁である。

吉原は晩年に「日本国際美術展」や「インド・トリエンナーレ展」でグラン・プリを受賞したが、一九二九年の最初の個展以来、数十年の画歴を持つ長老的画家が、文化勲章や芸術院賞でなく、右のような賞を得たところに、彼の前衛画家としての面目がある。

“具体美術協会”の詳しい紹介はこちら »

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