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美しき「無」─桑山忠明の芸術
評価され続けているアジアのアート
12/23
評価され続けているアジアのアート
国際的に評価されているアーティストやアジアのアートマーケットに関しての書籍『今、評価され続けているアジアのアート』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第12回目は、桑山忠明をご紹介する。
アーロン・ベッキィ
元シンシナティ美術館館長 建築・デザイン評論家
純粋なる色、形、モノの存在
100年以上にわたって芸術家たちを苦しめ、困惑させてきた「無」1。何をしないのか。どのようにして表現をなくすのか。それ自体から生じる制約から逃れる芸術とは何か。そして純粋なる悟りの境地、禅の精神、芸術に到達する方法。これらは現実の伝達にとどまらない、クリティカルな実践の確立を願う芸術家たちにとって、それぞれの創作活動の主要課題であり続けた。
こうした関心を抱く動機は、哲学的関心(精神、神聖なるもの、芸術における他の存在になる方法)2から現実的関心(消費されない芸術作品を生み出す方法、つまり努力が報われない労働者的芸術家)3にまで及ぶ 。しかも、それらは美しさの追求でもあり、数多くの芸術家たちが、何も描写せず、何も作らないことによってしか、本当の意味で独創的かつ美しい芸術を生み出すことはできないと信じていた。過去50年間を振り返っても、桑山忠明ほど、「無」の追求に誰よりも長い時間を費やし、徹底的に取り組んできた芸術家はいない。
皮肉なことに、あるいは当然というべきか、この「無」の探求に魅了されたミニマリストたちの論理に従えば、最も「無」に近づいた作品から実際に見て取れるものは、それは桑山が作り出す作品にも間違いなく当てはまるのだが、鑑賞者に与えるインパクトの強さと効果をより重視する作業である。それは私たちが通常芸術に求める要素が欠けているためである。何も描写せず、支配関係も物質感もない桑山の絵画やオブジェは、純粋なる色、形、空間におけるモノの存在となる。その色合いには華やかさと深みが混在し、何かを具体的に言及していないからこそ、それ自体で完成されていると同時に、鑑賞者が意識を集中させる、あるいは呪物崇拝の対象となる物体でもない。それこそまさに、桑山がたどり着こうとしている境地なのだ4。作り込まれた、あるいは本来の意味での創作的行為の痕跡を丁寧に取り除く作業との関係において、「空虚」や「無」の空間が現れることこそ、自らが創作する芸術だと彼は確信している。
桑山がこの空間の探求に乗り出したのは、そういった「無」を追い求める従来の試みと、作品が軽々しく消費されることに対抗すべく、作品の完成度―意味や説明、装飾性や物質感―を追求し続けていた古き芸術観の反動から生まれたミニマリズムの時代だった。桑山はその時その場所へ、つまり1950年代末にニューヨークへ渡った時点で、具象的ではないものの、細やかで表現的な技法をすでに学んでいた。伝統に息苦しさを感じたからこそ、桑山はそれまで学んだことを捨ててアメリカに向かったが、その日本画の流派5で専門的な知識を得ただけでなく、アクティブな創作活動を行う芸術家としての意識が芽生えた結果、既知なるものとの決別を見事に果たすことになる。
ニューヨークで桑山が踏み込んだミニマリズムの潮流は、その起源を1910年代にまで遡る。それ以前の芸術家たちも「無」を追い求め、それぞれの作品を純化していたが、具象性や装飾性を大胆に排除したミニマリズムの萌芽が現れるには、カジミール・マレーヴィッチやエル・リシツキー、ピエト・モンドリアン、テオ・ファン・ドゥースブルフなどの登場を待たなければならなかった6。これらの芸術家たちは、「無」を追求する二つの流れを代表する存在でもある。例えばマレーヴィッチなどの一派は、自らの創作を、少なくとも部分的には科学と結びついた行為または政治的革命とみなしつつ、量子力学論の登場やその他の進展を通じた真実の根本的解明に関連づけていた7。一方、モンドリアンを突き動かしていたのは、否定のプロセスを通じてしか降臨しない、宇宙の意志または調和に対する信念だった8。
こうした芸術家やその仲間内において、「無の創造」という概念を最後まで貫いた者はいなかった。彼らの創作には明らかな物質感と複雑な画面構成が残り、それはマレーヴィチが制作した二作品、《白の上の白》(1918年)と《黒の正方形》(1915年)さえも例外ではなかった。そのようにして残された課題はミニマリズムでも再び浮き彫りとなり、芸術家たちは純粋な「無」に近づきながらも常に後退を余儀なくされた。それも驚くべきことではないのかもしれない。芸術家たちが「何もしない」だけでなく、作家としての手跡も否定することを簡単に受け入れられるはずはない。それは一種の自殺行為と言える。自ら目指すべき境地に最も近づいた芸術家たち、例えばアド・ラインハートやマーク・ロスコが晩年に実生活と創作活動でこれを実践し、陰鬱で重苦しい「暗黒の世界」にたどり着いたのも無理はないのかもしれない。
ドナルド・ジャッドやカール・アンドレ、アン・トルイット、ロバート・モリス、マーク・ディ・スヴェロ、(やや遅れて合流した)ソル・ルウィット、そして桑山らを先駆者とするミニマリストムーブメントは、最初期から従来の多くのミニマルアートを上回る表現性を備えていた。それは抽象表現主義者のたくましいプリミティヴィスム(原始主義)と原始的本能に対する明らかな反動であると同時に、うんざりするほど膨大な量の意味と物質、ただのモノによって、一般大衆と芸術家の双方を溺れさせかねない消費文化の台頭に代わる選択肢を提示する試みだった。さらに1960年代初頭のミニマリズムは、一部の批評家の意見やアラン・レネなどの映画作品との関連性、とりわけ核兵器による人類滅亡の危機が常に介在していた時代背景からも、そのような文化の存在を否定する感覚を呼び起こした。これは新たなる人類共存と共産主義の真実、あるいは純粋かつ最終的な悟りの境地を目指すための建設的な動機ではなく、怒りと拒絶、否定のミニマリズムだった9。
皮肉にも、ジェイムズ・マイヤー10が指摘しているように、一九六三年のグリーンギャラリーでの展覧会に始まり、評価を確立したユダヤ博物館での「プライマリー・ストラクチャーズ」展、そして一九六六年にグッゲンハイム美術館で開かれた「システミック・ペインティング」展を経たこのムーブメントは、芸術界のトレンドに対する反動であると同時に、政治的積極行動主義と消費文化のより広範なムーブメントの一部だった。ファッションと音楽の世界においては、一部の上流階級および富裕層によってミニマリズムへの転換が実現した。差別化を図るその方法とは、大衆消費社会を否定する芸術家たちに合流することであり、その大量生産および拙速な情緒反応の誘発を、現在と未来の状況を正しく把握した者が認める芸術の対極と考えた。
芸術の伝統と無縁な素材の獲得
桑山をこのムーブメントから遠ざけたのは、英語力の欠如をある種の防波堤として活用し、激しい議論の応酬から距離を置き続けたこと。そして程なくして制作の根幹となる「労働の販売行為」からも、遠く離れた立場を守り続けたことにある。しかし、そうした距離以上に、本当の意味で彼の仕事を際立たせたのは、桑山が前進し続けたことにある。1960年代初頭のミニマリストムーブメントにはすぐに亀裂が入ったが、そうした分裂は、例えば「モリスの表現性豊かな彫刻vs トルイットの純粋なフォルム」というように、表現形態や物質感と関わりがあった11。この集団の中で桑山は最もラディカルな存在であり続け、友人や仲間たちが大量消費を拒絶、あるいはそれと対抗するために他の手段を講じ始めた時でさえ、彼は異なる方向に進んでいった。これまで以上にミニマルな方向性を模索したのだ。
しかし彼が選んだ手段は、まさしく「大がかり」で「高干渉」な物体を生産するために開発されたテクノロジーの導入だった。最初に選ばれたのはスプレー塗料だ。工場での大量生産を目的に、広く平坦な表面を塗装するために登場したこの技術は、カーディテイリングやホットロッド愛好家(最も有名なのはエド・ビッグ・ダディ・ロスだろう)、雑誌のイラスト、そして建物の完成予想図など、より大衆的な仕事に携わるアーティストたちによってすぐに取り入れられ12、後にグラフィティアートのムーブメントを支えた。桑山にとって、ハイアート(高級芸術)の伝統と全く関係のない素材を使ったのは、これが初めてだった。彼を満足させたのは、キャンバスにブラシではなく、細かい霧として塗料をむらなく置いていく、その仕上がりの絶対性だった。水彩で用いた方法によって色を重ねることにより、同じく均等で深みのある着色が得られただけでなく、芸術家による作業の痕跡も残らなかった。
とはいえ、一方通行の進展を信じていない桑山は、絵具の使用をただ諦めたわけではない。スプレー塗料を新たな武器に加えたのだ。その直後に制作を始めた立体作品についても同じことが言えた。彼はここで初めて金属を使用している。そしてこの人工素材を使うことで、全体的に着色され、機械加工された感触と光沢のある表面が得られたことにより、よりニュートラルな、つまり効果が高くても低干渉な素材という概念に近づくことが可能になったのは明らかだった。金属から最大限の耐屈曲性を得るために、素材の状態変化を見極める鍛冶屋のように、桑山はブロンズとアルミニウムを用い、自身の層状絵画と同じく抽象的な作品を創作したが、それらを壁の中に閉じ込めることはしなかった。
桑山はまた、連続したシリーズを制作することで、キャンバス一枚の世界という限界を破壊した。彼は以前からペインティングをいくつかのユニットに区分し、薄い帯状のアルミニウム片で正方形に区切っていた。その単体あるいは全体が物体化し、同時に存在することで独自性が問われる完全な均一要素となるように意図されていた。その後、桑山は全体の要素がまったく同じ(最初は二、三点だったが、最終的にその数を増やしていった)、あるいは色調をわずかに変えたシリーズを制作するようになる。表面の下層の色彩は、光の当たり方によって透け、あるいは作品をどの角度から見るのかによって異なり、鑑賞者が直接的に芸術作品を体験することが可能になった。作品はただ見つめるだけのものでも、変化がなく、呪物崇拝の対象となる物体でもなくなったのだ。鑑賞者は動き回らなければならず、芸術作品の中に空間と時間が生み出された。
やがて、いくつかの作品はスケールが大きくなり、縦に50点以上のユニットが並ぶシリーズも生まれた。その大きさが人間の視野に収まりきれなくなる、あるいは鑑賞者を取り囲むようになると、作品はまた新たな方向性に進んでいった。桑山が好むのは、高く垂直な作品が鑑賞者を取り囲むよう、L字またはU字型に設置することである。これは壁一枚という制限を取り払うと共に、鑑賞者が正面からしか作品と向き合えない関係性を強制的に排除するためだ。鑑賞者はまず、それぞれのユニットの相違や変化を探そうとするが、すぐに表面の色合いと反射光が微妙に違うことに気付く。桑山という芸術家が時間をかけて追求しているのは、鑑賞者がその空間を動くことで作品との関係性が変化し、そこから生まれる何かなのである。網膜に記録された画像を再生する行為は、空間に漂う、かすかにしか知覚できない色彩の雲を生む。そしてその存在をとらえようとすればするほど、その雲は霧のように消え去っていく。
こうした彫刻的な作品群だけでなく、桑山の作品一つひとつには、南カリフォルニアの「光と空間の芸術家」13たちが作り出す芸術とある種の類似性がある(桑山自身も認めている)。ジェームズ・タレルやロバート・アーウィン、ラリー・ベルといった作家が作品の非物質化を追求し、鑑賞者に自らの知覚を意識させようとする(彼らの最も良き理解者ローレンス・ウェクスラー14がそう主張しているxiv)のに対し、桑山はその雲を気化させ、鑑賞者が作品を何となく受け入れることを許さず、効果の欠如や、少なくともそれをそれとして定義できないことをただ突きつける。
しかも、他のミニマリズム探求者とは違い、桑山はモニュメント性(記念碑性、不動性、壮大さ)への傾倒を断固として拒否した。作品をギャラリー内にその場所ならではの方法で展示することが可能になり、スペースに手を加える自由を与えられた時も、桑山は空間を現状のまま使用することを選択し、自らの作品が持つ完全性と反復性、低干渉性を際立たせている15。彼はポストヒューマン時代にも自身の作品が生き長らえることを願っているが、鑑賞者を威圧することも、(ドナルド・ジャッドやリチャード・セラのように)鑑賞者より大きな力の啓示を探求することもせず、それぞれ、そして鑑賞者との関係性における作品のあり方を強調していた。さらにソル・ルウィットとは異なり、連続性や幾何学性が作品の主要素または構成要素になることもなかった16。同じ芸術家の妻・内藤楽子の作品との共通点が感じられる、紙を使った繊細な作品も制作した桑山にとって、それぞれのユニットは個々の存在感に加え、逆説的だが鑑賞者に与える影響を通じて存在した自律的な作品であるという感覚を保っていた。
「つくらないこと」の制作様式の発見
様々な技術やプロセス、フォーマットで実験を重ねるうちに、桑山は「作らないこと」に限りなく近い、一つの制作様式を発見している。彼は日本のある工場の協力を得て、独特な色彩が得られるチタンの電解処理を研究。その作業は実際に職人と膝を突き合わせ、材質の変化を見極め、希望する色合いを得るというものだ。色彩が不可欠なこと、そしてチタン特有の性質(フランク・ゲイリーのような建築家にも認められるようになった)により、彼は虹色のユニークな輝きを手に入れた。素材の優れた安定性により、その輝きの独自性もますます際立つことになった。小さなブロックに切り分けられたチタンは壁面の格子に合わせ、色の組み合わせを考えて配列。すると、部屋の雰囲気を変えればもちろんのこと、鑑賞者が顔あるいは視線をわずかに動かすだけで、作品の様相が変化していくのだ。皮肉なことに、これらのチタン片は制作手法を最小限に抑える「生産のミニマリズム」の産物であると同時に、桑山が自身の作品に最大限許した装飾性と華やかさなのかもしれない。
このような方法によって、桑山は「無」に限りなく近づき続けている。そして本人が何度も指摘しているように、彼は自身の芸術が、ほのかに漂う空気の中に存在すると考えている。鑑賞者と作品、そしてそれを展示する空間を結ぶオーラのようなものとして。彼が追い求めているのは、そのオーラを作り出すのではなく、あくまで自然に発生させることなのだ。より事態を複雑化、あるいは「無」に近づけるために、桑山はこの他ならぬ「無」こそ、美しくて価値があり、知覚や人間に依存しないものだと信じている。つまるところ「無」とは、芸術家の意志や選択はもちろん、偶然性や嗜好、美しさを楽しむことさえも超越している。
とはいえ、近年に取り組んできた成果といえるこの作品を、この芸術家の創作活動の集大成、あるいは最新の進化形と考えてはならない。たとえ最終的に目指すところが「無」の純粋さ、あるいは純粋なる「無」であったとしても、桑山は自身の仕事を、何らかの形態または目標、理想へたどり着くための進展とみなすことを拒否する。彼はその代わりに、すでに実践してきた様式に立ち返り、既存の作品に再び手を加え続ける。結局、過去の作品を破棄したり、最新作に強い思い入れを抱いたり(どんなクリエイターにも共通することだが、最新の作品に愛着を覚えると本人も認めている)することは、創作の技巧とその見せ方、あるいは創作活動において芸術家が下すその他の選択にこそ、本質的な価値があることを意味している。
その代わりに、桑山は創作の手を休めることがない。彼は自分の仕事に紛れもなく情熱を抱いているばかりか、まさしく自身の選択から生まれる美的感覚を、とりわけ色彩と構成の美的感覚を備えている。しかも彼は、自身の基準に満たない作品を破棄しているという。さらに今もなお、創作の地平を広げるために新たな媒体や技術を取り入れるのではなく、すでに限界がわかっている旧知のフォーマットからすべての可能性を引き出すことに全力で取り組んでいる。新しいテクノロジーをどれだけ受け入れたとしても、彼の実験が止むこともないだろう。これらはすべて、桑山が自身の作品一つひとつに価値を見出していることだけでなく、彼が独創的かつ特別なクリエイターとして認識されるべき判断基準の持ち主であることを示している。となれば、最も研ぎ澄まされた桑山の芸術とは、すべてが「無」のようなものであって、私たちが今なお芸術と呼ぶ何かで鑑賞者の目と精神を満たす方法からは、結局何も現れないという説得力にあるのかもしれない。
書籍情報
書籍名:今、評価され続けているアジアのアート 発行:軽井沢ニューアートミュージアム
発売 : 実業之日本社
発売日 : 2019年8月6日
※本記事に掲載されている情報は発行当時のものです。現在の状況とは異なる場合があります。
1「無」という課題の起源は、少なくとも西洋では、代数のゼロ、一点透視図法、「無」または「不在」という哲学的概念(参照:ブライアン・ロットマン『Signifying Nothing: The Semiotics of Zero』(パロ・アルト:スタンフォード大学出版局、一九九一年)が生まれた時代までさかのぼる。ヘーゲルおよびハイデガーの思想から生まれたポジティブな「不在」は、マルクス主義の「欠乏」とは対照をなす。しかし、この課題について最も哲学的に説明しているのは、ジャン=ポール・サルトルの『存在と無』、人間性の根源をなす疎外・他有化スパイラルについての記述だろう(ヘイゼル・E・バーンズ訳、ニューヨーク:Philosophical Library、1956年、21 - 46頁および617頁以降)
2 現代芸術における禅思想の解釈(誤解)は次を参照のこと;グレゴリーP・A・レビン、『Long Strange Journey: On Modern Zen, Zen Art, and Other Predicaments 』(ホノルル:ハワイ大学出版局、2017年)。
3これらの理論は一般的にはマルクス主義、芸術界ではクレメント・グリーンバーグが戦後に発表した論文に関連付けられる。グリーンバーグ『Art and Culture(芸術と文化)』(ニューヨーク:Beacon Press、1961年)を参照
4 温 いずれも本人のコメントより:著者とのインタビュー、2019年3月15日
5 この流派の歴史(英語版)は、エレン・P・コナント他『Nihonga: Transcending the Past』ロンドン:Weatherhill Press、1996年)を参照
6一般的に、装飾的な要素を極限まで切り詰めた芸術を指す「ミニマリズム」という言葉は1960年代に現れた。細かい描写や装飾性を排除した創作を「非対象芸術」または「抽象芸術」(ロシアの画家ワシリー・カンディンスキーが考案)という言葉で説明し始めたのは、1920年代から1930年代にかけてである。この様式・概念の連続性は、歴史をさかのぼることによってしか理解できない。参照:エドワード・ストリックランド『Minimalism: Origins』(ブルーミントン:インディアナ大学出版局、1993年)
7「非対象芸術」という言葉はマレーヴィチが考案し、1927年の著書『The Non-Objective World: Manifesto of Suprematism(無対象の世界)』(ニューヨーク:Dover Publications、2003年)で西洋社会に広まった
8ピエト・モンドリアン『Neoplasticism in Painting(新造形主義)』(『デ・ステイル』誌)、第1巻第12号140─147頁、1925年、ハンス・L・C・ヤッフェ訳(『デ・ステイル』誌)、(ニューヨーク:ハリー・N・エイブラムス、1971年)
9参照:ドーア・アシュトン 「The New York School: A Cultural Reckoning』 (パークリー:カリフォルニア大学出版局 一九九二年)
10ジェイムズ・マイヤー 「Minimalism: Art and Polemics in the Sixties』(ニューヘイヴン:イェール大学出版局、二〇〇一年)、二四頁以降
11同上、47-56頁。彼は桑山の作品をレビューしていないが、マイケル・フリードが自身のエッセーでこのムーブメントの最も優れた継続的評価を行っている。参照: マイケル・フリード 『Art and Objecthood: Essays and Reviews』(シカゴ:シカゴ大学出版局、一九九八年)
12ヒラリー・グリーンバウム、ダナ・ルビンスタイン 『The Origin of Spray Paint』、ニューヨークタイムズ、二〇一一年一一月四日 M二二項
13このムーブメントに関する最も的確な解説と分析については、第一回パシフィック・スタンダード・タイム企画展の一環として開催された展覧会カタログを参照:ロビン・クラーク編、『Phenomenal: California Light, Space, Surface』 (バークリー:カリフォルニア大学出版局、二〇一一年)
14ローレンス・ウェクスラー、『Seeing is Forgetting the Name of the Thing One Sees: A Life of Contemporary Artist Robert Irwin』 (バークリー:カリフォルニア大学出版局、一九八二年)
15桑山は実際、セラの重厚で大規模な作品も、ゼロのような集団による「限りなく無に近いもの」を作り出す試みも、それぞれがまさしくモニュメンタリティによって失敗したと強く感じている。参照: ジョセフ・D・ケトナー 『Witness to Phenomenon: Group Zero and the Development of New Media in Postwar European Art』(ロンドン:Bloomsbury Academic Press、二〇一七年)
16ミニマリズムの概念的作業への退化に関する最も優れた考察は次を参照されたい:ルーシー・リバード『Dematerialization of the Art Object from 一九六六to 一九七二年』(バークリー:カリフォルニア大学出版局、一九七七年)