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「具体」発祥の地・芦屋に吉原通雄夫人・尚美さんを訪ねて

具体美術協会に関して発行された書籍『GUTAI STILL ALIVE 2015 vol.1』をデジタルアーカイブとしてお届けするシリーズ企画。第20回目は、具体美術協会の中心人物であった吉原治良の次男・吉原通雄の妻、吉原尚美さんへのインタビューをご紹介。妻の目から見たアーティストとしての吉原通雄、そして娘としての立場から見た吉原治良の姿を、具体発祥の地である“芦屋”でお聞きした。


「具体」発祥の地・芦屋に吉原通雄夫人の尚美さんを訪ねて 大阪の阪神間には、今も「具体」の多くの作家や遺族が住んでいる


この「具体」シリーズの取材のために、兵庫県芦屋市を中心とした阪神間を訪れることが多くなった。東京からだと新幹線で新大阪まで行き、そこから30分もあれば、だいたいの目的の駅に到着できた。「具体」のリーダー吉原治良の自宅だった屋敷に長男の吉原眞一郎氏を訪ねた時はJR芦屋駅から向かった。今回の吉原通雄夫人・尚美さんの取材も同じ駅からご自宅に向かうことになった。「具体」発祥の地である芦屋の閑静な住宅地の空気を感じながら到着すると、吉原通雄の作品が何点か展示されたリビングで尚美夫人が迎えてくれた。

吉原治良の次男として生まれた吉原通雄は、1954年の「具体」設立時にまだ大学生であったが、設立メンバーとして参加している。72年の解散まで出品を続け、「具体」関連の発表のさまざまな企画も行ってきた。吉原治良には4人の男兄弟がいたが、絵を描いていたのは通雄だけだった。父親と同じ関西学院大学に進み、そこで絵画部に入っていた。

尚美夫人と結婚したのは、吉原通雄が30歳の時で、すでに具体で発表を行っていた。同時に吉原製油の社員として働いていた。

吉原尚美 私は主人と結婚して最初は豊中の一軒家に住んでいました。アトリエはなかったです。最初の3年は、まだ子供もいなくて二人だけでしたから、こんなこともありましたね。主人が会社に出かける時、「色紙をいっぱい丸めといてくれ」と言うんです。だから友達を家に呼んで、色紙丸めて、色紙だらけにしておいたら、自宅の庭でね、主人がそれをキャンバスに投げて貼り付ける作品を創っていました。色紙を真ん中の方に置く時、投げても自分の思ったところに行かないときは、主人が私の身体を支えて「そこに置いてくれ」というところに色紙を置きましたね。あれは1963年の秋で、ケネディ大統領が暗殺された年でしたね。グタイピナコテカでやった秋の個展がその作品でしたから。

会社では広告の仕事、吉原製油のコマーシャルを作っていました。油がポトンと落ちて、オタマジャクシみたいな模様になるのは主人の作品で、あれは好評だったみたいですね。

結婚する前からけっこう長く付き合っていたんですけど、いろんなことをしていましたよ。個展の前の年は、産経会館で「だいじょうぶ月はおちない〈具体美術と森田モダンダンス〉」をやりましたが、あれは主人が考えたんです。舞台が開くと真っ白い人間が立っている。みんなに白い衣装を着せて、どっか動かすようにしてね。鼻とか耳とか膝とか指とか動くところを真っ赤にして。鼻なんかなかなか動かないでしょう。そこには見えない糸をつけて引っ張るようにして。耳も一人動く人がいたんですね。面白い発想をしてましたね。「具体」ではないですけど、歌舞伎の人に舞台の美術を頼まれたり、武腰美代子の体操ショーのバックをやっていたのを覚えています。ある時、野際陽子の対談の番組に主人の作品が出たんです。テープの作品や色紙の作品が珍しいということで、それを観た人が面白いからと、仕事を頼んできたのでしょうね。アイデアがいろいろある人でしたから。

具体の作品だけではなく、コマーシャルの制作やさまざまな活動を行ってきた吉原通雄を尚美夫人は見てきた。自身も絵を描くとか、美術に深く関わるということではなかったが、「具体」のピナコテカでの展覧会やベニス・ビエンナーレなど海外展などにも常に同行し、具体の動きを見てきている。そして「具体」のリーダー吉原治良は義理の父親ということになるが、その家族としての一面が意外な吉原治良像を教えてくれた。

吉原尚美 (吉原治良は)他の人から見たら偉い方だったのですけど、私にしたらお父さんですから、孫を連れていくと、アトリエから階段を下りてくるのがもどかしくて、横の手すりをもって滑り台みたいにして降りて来て「来たっ!」とね。「具体」の白髪一雄さんとか、元永定正さんは、あの怖い先生がぜんぜん人間が違うって驚いておっしゃってました。ほかの息子さんはまだ結婚してなくて、私が主人と一番に結婚したので、男の子供ばかりだった中に女の子は私が初めてで、とても可愛がってくださったんですね。それで初めての子供ができて、お父さんにしたら初孫で、孫ができてとても変わられたということですね。家は別に住んでいたんですけど、どこかに行った帰りは、必ず家に寄られて孫を見にくるんですよ。あの子がまだ10ヶ月くらいの時に、お父様が肝臓で入院しました。その時は芦屋病院に毎日行きましたよ。望遠鏡を持って待っているんです。本当に孫と私をかわいがってくれました。

吉原治良の話になると、これまでこのシリーズでいろいろな「具体」の作家や遺族が語った厳しい吉原治良像とは異なる、やさしいお祖父さまの姿が見えてくる。そうした家族関係の中では、吉原治良と息子・通雄との「具体」の中での美術的な関係の在り方がどのようになっていたのか、そこに尚美夫人が接する機会はあまりなかったようだ。アトリエも吉原治良のアトリエを借りて制作していたという。

その吉原通雄は、72年の「具体」の解散後は、作品制作はほとんど中断される。それでも、会社を早い時期に退職して再び制作を始めることになる。

吉原尚美 やっぱり絵を描きたいから、53歳の時に会社をはやく辞めました。写実画じゃなくて創造的な絵を描きたいから、少しでも頭がシャープな間に会社を辞めて制作に打ち込みたいということですね。ちょうど都合のいいアトリエらしい部屋が阪急沿線の武庫之荘に見つかったので、会社を辞めてから10年間はそこへ通っていました。それで絵を描いて91年と94年の2回、ギャラリー白で個展をしました。アトリエには朝から出かけていました。毎日新聞のインタビューに「朝から家にいたら女房に嫌がられるから、早く来ています」と答えてましたね(笑)。

そうして10年、吉原通雄は、やはり父親と同じ、くも膜下出血で倒れた。まだまだ制作活動ができる年齢だったが、惜しまれる死を迎えた。最後に人物像を聞くと、

吉原尚美 温厚、優しい、遠慮深い人でした。自分が前に出ていこうという気が全くない。特に「具体」では、お父さんの息子だから遠慮してましたね、後ろ後ろにいて、前に出ませんでした。だけど、芸術家の気難しいところはありましたよ。私だからいけたのと違うかな。そして、お父さんのことは尊敬してました。やっぱり具体の方がお父様が怖いといっているのと同じで、主人も随分、お父様には遠慮していたところもあります。何か言いたいときにも私に言ってくれと(笑)ということがありました。

作品を制作するときには、父親のアトリエを借り、海外にも長期旅行を共にしている。そこで「具体」について美術について、どのような会話をしていたのかは、誰にも分らない。親子で、しかも父親がリーダーだったということにも気を使っていたのだろう。遠慮深い性格で優しかったという人柄の向こうの芸術家としての吉原通雄の評価を、これから、しっかりと見定めなくてはいけないのだろう。

(月刊ギャラリー6月号2014年に掲載)

“具体美術協会”の詳しい紹介はこちら »

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